新刊「烏剌奴斯(ウラヌス)の闇」、そろそろ発売かと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

前回「花の形見」では、実在の学者として、升屋の番頭こと山片蟠桃が登場しましたが(「烏剌奴斯」にも出てます)、今回は、稲村三伯という蘭学者が出てきます。「ハルマ和解」を作ったひとで、またの名を海上随鴎。かの中天游先生(緒方洪庵の師匠)の、お師匠さんです。つまり、天游先生の奥様おさだ先生の父親でもあります。天游先生は、前にも書きましたが、十一屋の弟子筋にあたる橋本曇斎にも、師事しています。

その辺りもふまえて、今回の話を読んでいただくと、またちょっと面白いかも。学者の世界って、狭いんですよね。横にも縦にもあれこれ繋がっている。……まあ、これは現代でも結構、そういうところあります。ホントに狭い。

……あ、ただし、念のためですが、私の書くのは基本的に「史実がらみフィクション娯楽小説」なので、実在の学者が出てきたからといって、あれこれすべて史実とは思わないでくださいまし。まあ、思う方もいないとは思いますけども。そもそも主役2人、実在じゃないしな。

タイトルの「烏剌奴斯」については、前々回の記事でちょっと書いたので、今日は「闇」についてちょっと。今回のを書いている途中で、「闇」について、改めてアレコレ考えました。小次郎が見つけ出そうとしている「闇」について。

私の話、なんでキャラを全員、悪人にしないようにするの、って言われたことがあるんです。そう見えるのかなー、とちょっと不思議だった。別にそう思って書いてるわけじゃなかったので。

「悪」と「正義」については、書き物の基本設定を作るときには、当然ながら、じっくり考えます。たとえば、〈在天別流〉。あのシリーズをドラマにしてもらったとき、全体としてドラマすごく好きだし満足しているのですが、自分のなかに違和感として残ったのは、〈別流〉が「正義」として描かれたことでした。私のなかでは決してそうではなく、主役の章は、左近が「正義」をなしているわけではないことは、ちゃんと気付いています。彼女には彼女の信念があるけれど、それが正しいこととは限らない。……でも、テレビの時代劇には判りやすい「正義」が必要で、ヒロインはその体現者でなければいけないのかしら、と思いながら見てました。

十一屋に関しては、もっと判りやすくて、主役の二人、小次郎と宗介の正義は違う。そういう二人が一つ屋根の下で友人として暮らす話を書きたくて、作った話です(その直前に書いたのが「あかね」で、あれはもっと明確に、主役どうしの正義が食い違って力で戦う話だったので、「十一屋」では刀を向けずに戦う男どうしを書きたかったのです。だから、私のなかでは「あかね」と「十一屋」は対になる話です)。……主役は正義の味方であるべき、という考え方もあるのかなーと思うけど、私はそうじゃないのが好みなのです。

だから……何が言いたいのかわかんなくなってきましたが、「悪人」にしたくないというより、「正義」にしたくないんだと思います。こういうのって、大塩平八郎は庶民の味方の正義漢みたいに言われてるけど実際は自分の正義のために町に火を放ったテロリストやん、とか、幕末の雄藩の借財整理って革新的なことやったみたいに言ってるけど自分の金減らしたくないし商人なんかどーなってもいいから借金踏み倒そーぜってことやん許せんわ、とか、そういう違和感を歴史の教科書に感じたときから、どうしても譲れないモノとして自分のなかにあるんだと思う。

……というような話を作品以外の場所で作者が語るのって野暮なのかなと思いつつ、今はちょっと書いてみる方向で。

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